居候新入社員2 そして自立
2003年4月2日ところで、この話、かなーり昔の話なので、自分でも、何日課長のお宅に
お世話になったのか思い出せなくて、当時の暦をここで調べてみた。
http://koyomi.vis.ne.jp/
カレンダーを見て、曜日を確認すると、ほぼこうだったなーということが
思い出せた。
その年の4月1日は、今年と同じ火曜日だった。
前住人が指定した引越し日は、6日の日曜。
荷物を運び込んだ日曜の晩まで課長宅に泊めてもらったので、6泊7日の
居候だった。
話は入社式当日の朝まで戻る。
教えられたとおり、代々木上原、表参道で乗り換えて、銀座線で神田に
向かった。
初めての通勤ラッシュ。話には聞いていたが、ここまでとは・・・!
会社に着くと、札幌採用で一緒の便で上京してきた仲間たちがいた。
みんな、ここ数日で、住居の方は落ち着き、新生活をスタートさせていた。
しかし私はまだこれからも居候・・・。
このスタートの遅れは、あとあと大きかった。
東京で採用された同期社員とも初めての対面。皆大人っぽくみえた。
ところで、私が入社した年は、男女雇用均等法が施行された年だった。
それでかどうか、いきなり新入社員代表の挨拶をするようにと仰せつかり、
非常にあたふたしたことを覚えている。
どういう状況でどういう挨拶をしたのかは忘却の彼方。
緊張の第一日目はあっという間に過ぎ、夜の宴会を迎えた。
そこでお決まりの自己紹介などがあったが、歓談中、「オマエ、俺の
(大学の)後輩だ。よろしく。」と、話し掛けてきた男性社員がいた。
それだけ言うと去って行った彼。それが、今の夫。
あとで知ったことだけど、夫も、菊名からのスタートだったらしい。
ま、夫と付き合うようになったのは、その1年以上あとのこと。
とりあえずは最初の出会いの日だった。
さて、会もお開きとなり、女性課長と連れ立って電車に乗った。
女性課長、Sさんのお宅は東横線の都立大学前。
閑静な住宅街の瀟洒なマンションだった。
「姉もまだ一人でね。最近、二人で買ったものなのよ。姉はまだ一緒に
暮らしていないけど」と教えられた。
部屋は、今から思うとこじんまりとした2DKだったが、菊名の仮のボロ
アパートやいとこの家に比べると、豪邸だった。
Sさんは、当時、多分40半ばだっただろうと思う。
洗練された素敵な女性だった。
穏やかで、気さくな人柄だったが、それでも、若い私と一緒だった間中、
ずっと色々と気を遣ってくれていた。
多分、普段は料理など余りしないと思われるような、慣れない手つきで、
夕食を作ってくれたり、「会社の周りは、お昼を買うような場所ないのよ」
と言いながら、形が不ぞろいのおにぎりを作ってくれたり。
すえひろ亭のステーキ肉や、博多めんたいこを惜しげもなく使ったパスタ
など、贅沢な材料で、おしいものを食べさせてもらった。
新入社員研修中は、先輩社員が代わる代わる講師をしていたが、私が
S課長宅の居候ということはすでにみんなに広まっており、色々な事を
聞かれた。S課長は、社内でもミステリアスな存在のようだった。
私はS課長との生活は快適だったので、「とても良くしてもらっています」
とだけ言っていた。
社会人になって、初めての土曜日。
Sさんはブランチのあと、都立大学周辺を案内してくれた。
少し歩くと自由が丘でもある、そのあたり。
明るいときに歩くのは初めてだったが、改めて、「いい所にいるんだなー」
と、居候の身でもうれしくなった。
歩いていける住宅街に、女性社員(既婚者)が住んでいた。
そこにSさんと遊びに行った。1歳くらいの赤ちゃんがいた。
一緒にサレジオ教会に行って、写真を撮った。
・・・お気楽居候生活の、楽しかった思い出。
次の日、いよいよ引越しの日。
Sさんも一緒に来てくれた。
仮アパートの荷物は、不動産屋がトラックで運んでくれた。
現地に着くと、まだ前住人の引越しは終っていなくて、Sさんもさすがに
「あらーっ遅いわねぇ!」と怒っていた。
とにかく、早く終らせたいので、前住人の関係者が荷物を運び出すのを
待たずに掃除を始めた。
しかし・・・。
仮アパートよりましなのは、広さと、共同トイレじゃないってことぐらい?
ここも、相当のボロだった。築何年だったのだろう。
木造で外階段が付いた「○○荘」という名前のアパートの2階・204号室。
前住人のあとに、プロの掃除会社が入ってきれいにしてくれるわけじゃない。
昔の引越しは、こんなものだったのだろうけど。
前住人は、男。知らない男のニオイも消えないうちに、自分の荷物を入れる。
今だったら絶対ありえないことだけど、当時の私は受け入れるしかなかった。
(後で、畳だけは全部取り替えてもらえた。)
部屋は縦長で、手前から玄関・台所(4.5畳)・和室(4.5畳)・和室(6畳)
となっていたが、引っ越した時点で付いていた照明は、トイレと風呂場と
台所の裸電球のみ。
翌日会社帰りに秋葉原で最初に調達したのは、部屋の照明だった。
部屋の内容は、まさに逆カルチャーショックの連続。
窓がサッシじゃなく木枠にガラスがはめ込まれたもので、
そのカギは、穴に鍵棒を差し込んでキコキコ回すようなものだった。
小さな流しは、ステンレスじゃなく、「鉄板」だった。
(流しが石だったという先輩もいたので、それよりはまし?)
トイレは和式だった。(水洗ですよ、もちろん)
風呂にはシャワーがなかった。
これが昭和60年代の東横線沿線、家賃4万5千円の現実だった。
屋根が瓦だったため、大きな地震のあと、瓦がズレて、その後の大雨の
とき、壁紙が剥がれるほどの雨漏りがしたこともあった。
こんなところでひとり暮らし・・・途方にくれるヒマもなく、私は出遅れた
新生活を取り戻すべく、がんばったのであった。
引っ越した翌々日には、どさんこにとっては未知の生物、「ゴキブリ」と
早くも対面するなど、本当に、次々といろんなことが起こったが、そこで
次の住居に引っ越すまでの1年半がんばったことが、その後の人生の
大きな自信となった。
人間、やればできる、と。
お世話になったのか思い出せなくて、当時の暦をここで調べてみた。
http://koyomi.vis.ne.jp/
カレンダーを見て、曜日を確認すると、ほぼこうだったなーということが
思い出せた。
その年の4月1日は、今年と同じ火曜日だった。
前住人が指定した引越し日は、6日の日曜。
荷物を運び込んだ日曜の晩まで課長宅に泊めてもらったので、6泊7日の
居候だった。
話は入社式当日の朝まで戻る。
教えられたとおり、代々木上原、表参道で乗り換えて、銀座線で神田に
向かった。
初めての通勤ラッシュ。話には聞いていたが、ここまでとは・・・!
会社に着くと、札幌採用で一緒の便で上京してきた仲間たちがいた。
みんな、ここ数日で、住居の方は落ち着き、新生活をスタートさせていた。
しかし私はまだこれからも居候・・・。
このスタートの遅れは、あとあと大きかった。
東京で採用された同期社員とも初めての対面。皆大人っぽくみえた。
ところで、私が入社した年は、男女雇用均等法が施行された年だった。
それでかどうか、いきなり新入社員代表の挨拶をするようにと仰せつかり、
非常にあたふたしたことを覚えている。
どういう状況でどういう挨拶をしたのかは忘却の彼方。
緊張の第一日目はあっという間に過ぎ、夜の宴会を迎えた。
そこでお決まりの自己紹介などがあったが、歓談中、「オマエ、俺の
(大学の)後輩だ。よろしく。」と、話し掛けてきた男性社員がいた。
それだけ言うと去って行った彼。それが、今の夫。
あとで知ったことだけど、夫も、菊名からのスタートだったらしい。
ま、夫と付き合うようになったのは、その1年以上あとのこと。
とりあえずは最初の出会いの日だった。
さて、会もお開きとなり、女性課長と連れ立って電車に乗った。
女性課長、Sさんのお宅は東横線の都立大学前。
閑静な住宅街の瀟洒なマンションだった。
「姉もまだ一人でね。最近、二人で買ったものなのよ。姉はまだ一緒に
暮らしていないけど」と教えられた。
部屋は、今から思うとこじんまりとした2DKだったが、菊名の仮のボロ
アパートやいとこの家に比べると、豪邸だった。
Sさんは、当時、多分40半ばだっただろうと思う。
洗練された素敵な女性だった。
穏やかで、気さくな人柄だったが、それでも、若い私と一緒だった間中、
ずっと色々と気を遣ってくれていた。
多分、普段は料理など余りしないと思われるような、慣れない手つきで、
夕食を作ってくれたり、「会社の周りは、お昼を買うような場所ないのよ」
と言いながら、形が不ぞろいのおにぎりを作ってくれたり。
すえひろ亭のステーキ肉や、博多めんたいこを惜しげもなく使ったパスタ
など、贅沢な材料で、おしいものを食べさせてもらった。
新入社員研修中は、先輩社員が代わる代わる講師をしていたが、私が
S課長宅の居候ということはすでにみんなに広まっており、色々な事を
聞かれた。S課長は、社内でもミステリアスな存在のようだった。
私はS課長との生活は快適だったので、「とても良くしてもらっています」
とだけ言っていた。
社会人になって、初めての土曜日。
Sさんはブランチのあと、都立大学周辺を案内してくれた。
少し歩くと自由が丘でもある、そのあたり。
明るいときに歩くのは初めてだったが、改めて、「いい所にいるんだなー」
と、居候の身でもうれしくなった。
歩いていける住宅街に、女性社員(既婚者)が住んでいた。
そこにSさんと遊びに行った。1歳くらいの赤ちゃんがいた。
一緒にサレジオ教会に行って、写真を撮った。
・・・お気楽居候生活の、楽しかった思い出。
次の日、いよいよ引越しの日。
Sさんも一緒に来てくれた。
仮アパートの荷物は、不動産屋がトラックで運んでくれた。
現地に着くと、まだ前住人の引越しは終っていなくて、Sさんもさすがに
「あらーっ遅いわねぇ!」と怒っていた。
とにかく、早く終らせたいので、前住人の関係者が荷物を運び出すのを
待たずに掃除を始めた。
しかし・・・。
仮アパートよりましなのは、広さと、共同トイレじゃないってことぐらい?
ここも、相当のボロだった。築何年だったのだろう。
木造で外階段が付いた「○○荘」という名前のアパートの2階・204号室。
前住人のあとに、プロの掃除会社が入ってきれいにしてくれるわけじゃない。
昔の引越しは、こんなものだったのだろうけど。
前住人は、男。知らない男のニオイも消えないうちに、自分の荷物を入れる。
今だったら絶対ありえないことだけど、当時の私は受け入れるしかなかった。
(後で、畳だけは全部取り替えてもらえた。)
部屋は縦長で、手前から玄関・台所(4.5畳)・和室(4.5畳)・和室(6畳)
となっていたが、引っ越した時点で付いていた照明は、トイレと風呂場と
台所の裸電球のみ。
翌日会社帰りに秋葉原で最初に調達したのは、部屋の照明だった。
部屋の内容は、まさに逆カルチャーショックの連続。
窓がサッシじゃなく木枠にガラスがはめ込まれたもので、
そのカギは、穴に鍵棒を差し込んでキコキコ回すようなものだった。
小さな流しは、ステンレスじゃなく、「鉄板」だった。
(流しが石だったという先輩もいたので、それよりはまし?)
トイレは和式だった。(水洗ですよ、もちろん)
風呂にはシャワーがなかった。
これが昭和60年代の東横線沿線、家賃4万5千円の現実だった。
屋根が瓦だったため、大きな地震のあと、瓦がズレて、その後の大雨の
とき、壁紙が剥がれるほどの雨漏りがしたこともあった。
こんなところでひとり暮らし・・・途方にくれるヒマもなく、私は出遅れた
新生活を取り戻すべく、がんばったのであった。
引っ越した翌々日には、どさんこにとっては未知の生物、「ゴキブリ」と
早くも対面するなど、本当に、次々といろんなことが起こったが、そこで
次の住居に引っ越すまでの1年半がんばったことが、その後の人生の
大きな自信となった。
人間、やればできる、と。
コメント